樺太・千島・北海道のアイヌは太古の昔からしばらくは採集狩猟の民族でした。しかし、日本で源平の戦いがあった12世紀ころからは、中国歴代王朝・満州・日本との中継貿易を盛んに行なうようになります。 中国元代の『元史』には、クイ(アイヌ)に攻め込まれたギレミ(ギリヤーク人)が救援を求めてきたので、モンゴルは1264年にアイヌを攻めたと記されています。しかし実態は、ギリヤークの中間マージンを排除したかった元がアイヌに直接貿易を迫ったものと解されています。アイヌが自国産の毛皮のみならず、日本からの輸入品(絹織物、漆器など)を大陸に再輸出してくれていたので、アイヌとの直接貿易に大きな魅力があったのでしょう。その後アイヌは、中国の明や清とも交易をおこなっています。 江戸時代、函館周辺を拠点としていた松前藩は蝦夷地を領有する許可を幕府から得たものの、当時の蝦夷地では米が採れません。藩士の俸禄を米で渡せませんからその代わりに蝦夷地を分割して上級武士に割り当て、アイヌと交易する権利を俸禄代わりに与えたのです。藩士たちは始めのうち自身でアイヌと交渉していましたが、やがて、商人に交渉を請け負わせて上納金を彼らからせしめるようになります(場所請負制)。アイヌたちは悪徳商人に騙され、搾取されて生活の困窮がいやが上にも進み、その怒りが嵩じて松前藩に対する反乱を起こすようになりました。 反乱はいくつも起こりますが、有名なものにシャクシャインの反乱(1669年)やクナシリ・メナシの蜂起(1789年)があります。これらの反乱を松前藩は何とか鎮圧しましたが、18世紀末に工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』に触発されたロシア脅威論がやがて日本全土に広がり、江戸幕府の幕閣も危機感に包まれます。「松前藩の下手な統治に蝦夷地を任せておいたのでは、アイヌがロシア側に付きかねない」と恐れ出したのです。1799年に東蝦夷、1807年に西蝦夷を幕府直轄地とし、一時松前藩に返しますが1854年に再び函館近辺を除く全蝦夷地を幕府直轄地に組み込みました。その上で、「アイヌを日本に取り込み、蝦夷地・樺太・千島のアイヌ居住地をロシアに先んじて日本領とする」という戦略が採られます。 この戦略は明治政府に引き継がれて、1869年(明治2年)に蝦夷地を北海道と改称し、続いてアイヌの創氏改名、入れ墨の禁止、原則狩猟禁止などによる同化政策が進められます。これと並行して、ロシアとの数年に亘る国境画定交渉を進めました。この交渉の結果、1875年に日露間の「千島・樺太交換条約」が締結され、「樺太をロシアへ渡す代わりに千島を日本領とする」ことで決着しました。本条約に基づいて、明治政府は即座に樺太アイヌの大半を北海道に強制移住させています。但し、後に日露戦争の勝利に伴って南樺太を日本領に編入し、再び多くのアイヌと和人が樺太南部に渡りました。 明治政府の「アイヌ内国民化政策」に伴って、狩猟漁撈や交易による生活の糧を失って窮乏化したアイヌは、内地から移住してきた和人の人口増に反比例して急激な人口減少に見舞われます。この状態を「憐れんだ(?)」帝国議会では、「農業も文字も知らないアイヌを農民化し教育を施す」という趣旨のアイヌ保護法が論議され、1899年(明治32年)に「北海道旧土人保護法」の成立をみました。この法律が、つい先ごろの1997年(平成9年)に「アイヌ文化振興法」という新法に置き換わるまで、「旧土人」という差別用語を含んだまま存在していたのですから驚きです。 「北海道旧土人保護法」では「遅れたアイヌを進んだ農民とするため」、狩猟地を取り上げる代わりに1戸につき15町歩までの土地を無償交付することが定められました。しかし、その実態が酷いものであることは、その当時の多くの資料から明白になっております。ここでは一例として、1997年の衆議院内閣委員会における民主党・池端清一委員の質問の一部から引用してみましょう。 昭和10年、北海道庁の学務部社会課が発行した資料には、「和人への払い下げを優先した後の余った土地の付与であったために、ほとんどは崖地であった。放牧もできず、開墾もできない土地が多くを占めていた」と記載されているのです。 また、教育について「北海道旧土人保護法」が定めている内容は、貧窮アイヌに対する小学校の授業料免除、アイヌ小学校の設立資金の国庫負担等です。この法律に基づくアイヌ小学校は1910年までに25校となり、1899年に23%だったアイヌの就学率は1910年に92%まで増加しています。アイヌ小学校設立による「別学教育」は、アイヌ児童の日本語能力向上に伴って1922年から逐次、和人とアイヌが一緒に学ぶ「統合教育」に移行していきました(但し当初から、アイヌ小学校にも和人が少数通い、普通の小学校で学ぶアイヌもいました)。 この間一貫して、「基礎学力の向上」が志向され、それと同時に「日本人がいかに優れた民族か、アイヌがいかに無知で劣等な人種か」も教授されました。「同化・皇民化政策」はこの後者の教育によって成果を収めましたが、併せてアイヌに対する和人の差別意識とアイヌ自身の卑屈感が醸成される結果をもたらしました。戦前の国定教科書(尋常小学読本巻十)には「アイヌは無学文盲にして・・・」と書かれていましたし、アイヌは和人と擦れ違いざまに「ア、イヌだ」などと呼ばれることが日常茶飯事でした。結婚・交際や就職などに関する差別も酷いものであったことは言うまでもありません(今でもかなりの偏見と差別があります)。 念のために申しますが、差別は教育が意図したものではなく、教育のみの結果でもありません。もっと根深い所に必然性や原因があるのは当然です。そもそもアイヌを「差別の被害者」と観念的にしか見ないことにも弊害があり、もっと事実に基づいて見る必要があるのです。私がお会いしたアイヌの方も「アイヌは被害者だから悪いことをしても許されるという考えの人がいる」と怒っていました。その一例に「社会保障を不正受給しているアイヌの実態を暴露したアイヌが、仲間から袋叩きにあった最近の事件」を挙げて下さいました。こういう「事実を直視せずに被害者を全面的に正当化する意識」は、決してアイヌの将来を豊かにするものではないでしょう。 ところで、アイヌ神謡集で有名な知里幸恵は無学文盲どころか、和人と共学の女学校に入っても学年でダントツトップの成績でしたが、それでもアイヌ故に相当辛い思いをしたようです。「学校の読本が辛かった」と幸恵が悲しそうに話していたことを金田一は書き、「アイヌは無学文盲にして・・・」の一節だったかもしれないと推測しています。彼女の遺した日記には次の一節があり、その精神の気高さに私も胸を打たれますが、それと同時に、天使のように清純な乙女心を、かくも苦しめた差別が悲しくなります。 私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしシサム(和人)であったら、もっと潤いのない人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在を知らない人であったかも知れない。しかし私は、涙を知っている。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けている。それは感謝すべきことだ。アイヌなるがゆえに世に見下げられる。それでも良い。 アイヌ民族党が来年の1月に発足すると報道されています。この党の代表になる予定の萱野志朗氏(故萱野茂氏の次男)は「アイヌのいろいろな権利が奪われてきた」として権利回復の運動を目指しています。どのような政党になるのか注目し、場合によっては及ばずながら応援したいと考えています。




by Jiran Jiran
アイヌ民族の生活とその神々の…