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和人に利用されてきたアイヌ民族の歴史 ニュース記事に関連したブログ

2011/12/20 22:40

 

 

樺太・千島・北海道のアイヌは太古の昔からしばらくは採集狩猟の民族でした。しかし、日本で源平の戦いがあった12世紀ころからは、中国歴代王朝・満州・日本との中継貿易を盛んに行なうようになります。

 

中国元代の『元史』には、クイ(アイヌ)に攻め込まれたギレミ(ギリヤーク人)が救援を求めてきたので、モンゴル1264年にアイヌを攻めたと記されています。しかし実態は、ギリヤークの中間マージンを排除したかった元がアイヌに直接貿易を迫ったものと解されています。アイヌが自国産の毛皮のみならず、日本からの輸入品(絹織物、漆器など)を大陸に再輸出してくれていたので、アイヌとの直接貿易に大きな魅力があったのでしょう。その後アイヌは、中国の明や清とも交易をおこなっています。

 

江戸時代、函館周辺を拠点としていた松前藩は蝦夷地を領有する許可を幕府から得たものの、当時の蝦夷地では米が採れません。藩士の俸禄を米で渡せませんからその代わりに蝦夷地を分割して上級武士に割り当て、アイヌと交易する権利を俸禄代わりに与えたのです。藩士たちは始めのうち自身でアイヌと交渉していましたが、やがて、商人に交渉を請け負わせて上納金を彼らからせしめるようになります(場所請負制)。アイヌたちは悪徳商人に騙され、搾取されて生活の困窮がいやが上にも進み、その怒りが嵩じて松前藩に対する反乱を起こすようになりました。

 

反乱はいくつも起こりますが、有名なものにシャクシャインの反乱(1669年)やクナシリ・メナシの蜂起(1789年)があります。これらの反乱を松前藩は何とか鎮圧しましたが、18世紀末に工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』に触発されたロシア脅威論がやがて日本全土に広がり、江戸幕府の幕閣も危機感に包まれます。「松前藩の下手な統治に蝦夷地を任せておいたのでは、アイヌがロシア側に付きかねない」と恐れ出したのです。1799年に東蝦夷、1807年に西蝦夷を幕府直轄地とし、一時松前藩に返しますが1854年に再び函館近辺を除く全蝦夷地を幕府直轄地に組み込みました。その上で、「アイヌを日本に取り込み、蝦夷地・樺太・千島のアイヌ居住地をロシアに先んじて日本領とする」という戦略が採られます。

 

この戦略は明治政府に引き継がれて、1869年(明治2年)に蝦夷地を北海道と改称し、続いてアイヌの創氏改名、入れ墨の禁止、原則狩猟禁止などによる同化政策が進められます。これと並行して、ロシアとの数年に亘る国境画定交渉を進めました。この交渉の結果、1875年に日露間の「千島・樺太交換条約」が締結され、「樺太をロシアへ渡す代わりに千島を日本領とする」ことで決着しました。本条約に基づいて、明治政府は即座に樺太アイヌの大半を北海道に強制移住させています。但し、後に日露戦争の勝利に伴って南樺太を日本領に編入し、再び多くのアイヌと和人が樺太南部に渡りました。

 

明治政府の「アイヌ内国民化政策」に伴って、狩猟漁撈や交易による生活の糧を失って窮乏化したアイヌは、内地から移住してきた和人の人口増に反比例して急激な人口減少に見舞われます。この状態を「憐れんだ(?)」帝国議会では、「農業も文字も知らないアイヌを農民化し教育を施す」という趣旨のアイヌ保護法が論議され、1899年(明治32年)に「北海道旧土人保護法」の成立をみました。この法律が、つい先ごろの1997年(平成9年)に「アイヌ文化振興法」という新法に置き換わるまで、「旧土人」という差別用語を含んだまま存在していたのですから驚きです。

 

「北海道旧土人保護法」では「遅れたアイヌを進んだ農民とするため」、狩猟地を取り上げる代わりに1戸につき15町歩までの土地を無償交付することが定められました。しかし、その実態が酷いものであることは、その当時の多くの資料から明白になっております。ここでは一例として、1997年の衆議院内閣委員会における民主党・池端清一委員の質問の一部から引用してみましょう。

 

昭和10年、北海道庁の学務部社会課が発行した資料には、「和人への払い下げを優先した後の余った土地の付与であったために、ほとんどは崖地であった。放牧もできず、開墾もできない土地が多くを占めていた」と記載されているのです。

 

また、教育について「北海道旧土人保護法」が定めている内容は、貧窮アイヌに対する小学校の授業料免除、アイヌ小学校の設立資金の国庫負担等です。この法律に基づくアイヌ小学校は1910年までに25校となり、1899年に23%だったアイヌの就学率は1910年に92%まで増加しています。アイヌ小学校設立による「別学教育」は、アイヌ児童の日本語能力向上に伴って1922年から逐次、和人とアイヌが一緒に学ぶ「統合教育」に移行していきました(但し当初から、アイヌ小学校にも和人が少数通い、普通の小学校で学ぶアイヌもいました)。

 

この間一貫して、「基礎学力の向上」が志向され、それと同時に「日本人がいかに優れた民族か、アイヌがいかに無知で劣等な人種か」も教授されました。「同化・皇民化政策」はこの後者の教育によって成果を収めましたが、併せてアイヌに対する和人の差別意識とアイヌ自身の卑屈感が醸成される結果をもたらしました。戦前の国定教科書(尋常小学読本巻十)には「アイヌは無学文盲にして・・・」と書かれていましたし、アイヌは和人と擦れ違いざまに「ア、イヌだ」などと呼ばれることが日常茶飯事でした。結婚・交際や就職などに関する差別も酷いものであったことは言うまでもありません(今でもかなりの偏見と差別があります)。

 

念のために申しますが、差別は教育が意図したものではなく、教育のみの結果でもありません。もっと根深い所に必然性や原因があるのは当然です。そもそもアイヌを「差別の被害者」と観念的にしか見ないことにも弊害があり、もっと事実に基づいて見る必要があるのです。私がお会いしたアイヌの方も「アイヌは被害者だから悪いことをしても許されるという考えの人がいる」と怒っていました。その一例に「社会保障を不正受給しているアイヌの実態を暴露したアイヌが、仲間から袋叩きにあった最近の事件」を挙げて下さいました。こういう「事実を直視せずに被害者を全面的に正当化する意識」は、決してアイヌの将来を豊かにするものではないでしょう。

 

ところで、アイヌ神謡集で有名な知里幸恵は無学文盲どころか、和人と共学の女学校に入っても学年でダントツトップの成績でしたが、それでもアイヌ故に相当辛い思いをしたようです。「学校の読本が辛かった」と幸恵が悲しそうに話していたことを金田一は書き、「アイヌは無学文盲にして・・・」の一節だったかもしれないと推測しています。彼女の遺した日記には次の一節があり、その精神の気高さに私も胸を打たれますが、それと同時に、天使のように清純な乙女心を、かくも苦しめた差別が悲しくなります。

 

私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしシサム(和人)であったら、もっと潤いのない人間であったかも知れない。アイヌだの、他の哀れな人々だのの存在を知らない人であったかも知れない。しかし私は、涙を知っている。神の試練の鞭を、愛の鞭を受けている。それは感謝すべきことだ。アイヌなるがゆえに世に見下げられる。それでも良い。

 

アイヌ民族党が来年の1月に発足すると報道されています。この党の代表になる予定の萱野志朗氏(萱野茂氏の次男)は「アイヌのいろいろな権利が奪われてきた」として権利回復の運動を目指しています。どのような政党になるのか注目し、場合によっては及ばずながら応援したいと考えています。

 

 

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縄文人と蝦夷とアイヌの深―い関係 ニュース記事に関連したブログ

2011/11/29 23:05

 

 

「日本語もアイヌ語も共に、系統不明の孤立した言語である」というのが現代における言語学の公式見解です。日本語やアイヌ語がどの言語と親戚なのか諸説あって、いずれもそれが正しいと証明されていない現状なのです。しかし、最近では古い日本語とアイヌ語が親戚だという説が強くなりつつあります。

 

「計量比較言語学」の安本美典氏は、上古日本語とどの言語が音韻と文法と単語で一番似ているのか、コンピュータにデータを入れて測定しました。そして、「上古日本語に一番近いのはアイヌ語である」という学説を発表しています。近年では片山龍峯氏も詳細な分析に基づいて「日本語とアイヌ語が共通の祖先から生まれた姉妹語であると認知される日は近い」と予言しています。彼はその著『日本語とアイヌ語』で、次のように語っています(要約)。

 

現代日本語の「ハヒフヘホ」は奈良時代に「ファフィフフェフォ」であり、それより古い時代には「パピプペポ」だったと実証されている。そうしてみると、アイヌ語の「パカリ」、「パシ」、「ポネ」が各々、日本語の「ハカル(計る)」、「ハシル(走る)」、「ホネ(骨)」に相当することも頷ける。古代における「パピプペポ」発音は沖縄の宮古島にも残っていて、「骨」は「プニ」、「人」は「ト」、「橋」は「パス」といった風である。アイヌ語に「ラ」という単語があって、これは崖という意味である。これを色々な言葉と比べてみると、東北方言で「フィラ」が急斜面、日本の古語で「ヒラ」が坂、鹿児島方言で「ヒラ」が崖、宮古島方言で「ラ」が急斜面なのである。

 

金田一京助は昭和12年に『山間のアイヌ語』を著し、東北地方の山間に住む「マタギ」が狩りをする時だけ使う隠語が全てアイヌ語であるとしています。セタ=犬、パケ=頭、ワカ=水、サンペ=心臓、ケリ=雪靴などです。そもそも、「マタギ」という言葉自体がアイヌ語で「山にいる旦那」という意味ですから。

 

金田一京助は東北地方の、知里真志保は日本全国の、地名の研究を行なったことでも有名で、日本の地名の中にアイヌ語がかなり残っていることを発見しました。北海道の地名の90%はアイヌ語から出ていますが、北海道以外でも以下の地名などはアイヌ語である可能性があります。但し、北海道以外の地名については、和語由来であるという解釈もあり、アイヌ語由来であるという解釈もあり、そのそれぞれがまた諸説に分かれるのでハッキリしたことは言えません。

 

  青森県の縄文時代の遺跡「三内丸山」で有名な、三内(さんない)=サン(奥から浜へ出る)ナイ(沢)=奥から浜へ出る沢

  岩手県の千厩(せんまや)=サン(奥から浜へ出る)モ(穏、小)ヤ(陸)=奥から浜へ出る小さい陸(おか)

  宮城県の気仙沼(けせんぬま)=ケシュエ(湾の奥の)ヌ(深い瀬)オマ(そこにある)=湾の奥にある深い瀬<気仙沼の海は明治の大津波で水深が浅くなったという記録があります>

  秋田(あきた)=ア(豊富な)キ(油)タ(そこに)=たくさん油の湧く所

  山形県の酒田(さかた)=サク(乾燥した低地)ア(ある)タ(そこに)=乾いた低地

  福島県の猪苗代(いなわしろ)=イナウ(神を祀る幣)ア(ある)ウシュ(たくさん)オロ(場所)=幣がたくさん立ててある場所<磐梯山の噴火を鎮めるために幣を立てて祈ったのでしょうか>

  岩手県の久慈(くじ)=クツ(断崖)チ(多い)=断崖の多い所

  長野県、東北各地の軽井沢のカルイは「野草を採集する」の意(沢は和語)

  長野県の諏訪(すわ)=シュ(鍋)ワ(円い縁)=円い鍋のような盆地

  四国の四万十川(しまんとがわ)=シ(真に)マント(美しい)川(和語)=真に美しい川

 

余談ですが、私たちが日常的に使っている言葉の中にあるアイヌ語の例を挙げると、ラッコ、トナカイ、シシャモなどがあります。

 

言語学以外の分野でも、自然人類学者の埴原和郎や哲学者で古代史家の梅原猛、歴史学者の喜田貞吉らは「アイヌ・琉球人・縄文人同祖論」を展開しています。アイヌも琉球人も縄文人も、いずれも古モンゴロイドに属するという見方です。古モンゴロイドとは、氷河期にモンゴル高原から南下し、氷河期が終わると一部は大陸沿岸の島々を北(日本列島など)へ移動した人々です。彼らは、顔の彫が深く、目が大きく二重瞼で、鼻筋が通っており、口が大きく、手足が長く、毛深いという外見的特徴を持っています。

 

一方、新モンゴロイドは、氷河期にも極寒のモンゴル高原に留まり、適応するために身体的変化を遂げたモンゴロイドで、大陸や韓半島から日本に渡来して弥生文化を形成しました。彼らは、顔の彫が浅く、細目の一重瞼で、鼻が低く、口が小さく、手足が短く、毛が薄いという特徴を持っています。

 

日本人においては、古モンゴロイドの特徴が、アイヌや、沖縄の人に多く残っていて、次いで、東北人にもやや多い傾向があります。反対に新モンゴロイドの特徴は、近畿地方の人たちに多く、次いで関東から九州にかけての日本人に多く見られます。縄文人の大多数が弥生人と混血して今日の日本民族を形成したものの、南北両端の縄文人の一部は北海道と沖縄に移住したとみる学者が多いのです。アイヌには北から樺太アイヌ、千島アイヌ、北海道アイヌが上古からいましたが、縄文人を本州アイヌと呼ぶ学者さえいます。

 

日本書紀には、朝廷の命を受けた阿倍比羅夫が658年に水軍180隻を率いて天皇に服属しない蝦夷を討ち、あぎた(秋田)、ぬしろ(能代)を占領したとあります。その後、征夷大将軍・坂上田村麻呂が794年と801年に蝦夷の阿弖流為(アテルイ)の軍を討伐したと書かれています。アテルイはアイヌ人の名前で、「水に漬けたオヒョウの皮」というほどの意味と解されています。アテルイは大阪の河内で処刑されますが、蝦夷の一部は北海道に移住し北海道のアイヌと合流したようです。この時代の北海道の遺跡からは、畑作農業の痕跡やチャシと呼ばれる砦が多数発見されています。

 

また、東北遠征が行われた奈良時代から平安時代にかけて、前線基地(鎮守府)として多賀城(宮城県)や胆沢城(岩手県)が築かれましたが、そこには訳語人(通訳)が配されたと記録されています。通訳が必要ということは蝦夷の言葉が単なる方言に留まらない「外国語」で、おそらくアイヌ語だった可能性が高いとは思われませんか。

 

 

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校正を終えて昇天した19歳少女の魂 ニュース記事に関連したブログ

2011/11/08 07:05

 

 

前回紹介したカムイユカラ「フクロー神が所作しながら歌った神謡」は、知里幸恵の死後に出版された『アイヌ神謡集』に他の12編の詩と共に収録されています。彼女はアイヌ雅語からなる元の詩を、正確にアルファベットで表記し、かつ、日本語訳と解説を付けましたが、それにもまして彼女の書いた「序」に私は心を打たれました。

 

「美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた」アイヌが、今や「激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている」姿を悲しむ涙が溢れております。また、その「序」は、「私たちを知って下さる多くの方に読んでいただくことが出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共に本当に無限の喜び、無上の幸福に存じます」という執筆の動機で結ばれているのです。

 

知里幸恵に初めて逢った時のことを、金田一京助は感動を込めて随筆「近文(ちかぶみ)の一夜」に書いています。

 

金田一は東大在学中にアイヌ語研究を志し、北海道や樺太に渡ってはアイヌ語習得とユーカラ収集に没頭する貧窮学者の生活を送っていました。1918年の夏、36歳の彼は4度目の北海道旅行に出ます。その折に、英国人宣教師でアイヌ研究家でもあったバチェラーの紹介で、旭川郊外の近文にアイヌ人クリスチャンであった金成(かんなり)まつを訪ねました。金成家と知里(ちり)家は、代々アイヌの酋長の家柄ですが、金田一が訪ねた家は知里幸恵とその伯母の金成まつと幸恵の祖母の金成モナシノウクの女3人だけの住いでした。

 

その家で、金田一と金成まつがユーカラの話に夢中になっている間に終列車が出てしまい、その晩やむなく彼は、女ばかりの所帯に泊めてもらいます。翌日の帰りがけに、「せっかくだから先生に見て頂きなさい」という伯母の指図で15歳の幸恵が持ってきた作文や習字は、言語学者の金田一から見てもこの上なく完璧に美しいものでした。驚いた彼はため息をついて「日本語がこれほど上手なのでは、きっとアイヌ語の方は駄目なのでしょうねぇ」と思わず独り言のようにつぶやきます。伯母はそれを引き取って「それが、赤ん坊の時からお祖母さんのユーカラを聞いて育ったので、アイヌ語では大人たちも及びません」と答えます。

 

祖母の金成モナシノウクは、語彙、語法、発音と記憶力の正確さではアイヌの中でも傑出したユーカラの伝承者でした。その祖母から直接指導を受けた幸恵は、ユーカラに使われているけれども当時既に忘れられつつあったアイヌ雅語の卓越した使い手でもありました。アイヌ語の正しい発音やアイヌ雅語について、後にユーカラ筆録の功で無形文化財となり紫綬褒章を授与された伯母・金成まつでさえ舌を巻くほどの正確な知識を持っていました。後に、東大に進んで金田一京助に師事し、アイヌ語研究の最高峰となった文学博士・知里真志保は幸恵の実弟ですが、終生姉を尊敬していました(なお前回紹介したフクローのユカラは、幸恵の訳に真志保が少し手を加えています)。

 

近文の家を去ろうとする金田一に、幸恵は「先生が貴重なお金やお時間を費やしてご苦労なさいますが、ユカラはそんなに値打ちのあるものなのでしょうか」と尋ねます。それに対して金田一は、「ギリシャ、ローマ、インド、フィンランドの叙事詩に並んで、ユカラは世界の5大叙事詩と言えます。日本でも稗田阿礼が暗唱していた物語を太安万侶が筆録して古事記となりました。私はこの貴重なユーカラの筆録に生涯をかけるつもりです」と答えます。それを聞くと幸恵は大きい眼にいっぱいの涙をたたえて「私の一生もユカラの研究に捧げます」と決意を語るのでした。

 

なおこの当時、「古事記のような長い物語を人が暗唱するのは不可能」という理由での「古事記虚構説」が盛んでした。しかし、金田一が幸恵に逢う5年前にアイヌの古老・ワカルパが1か月かかって朗誦した「虎杖丸の曲」というユーカラを金田一は101,000ページのノートに採録しています。その採録ノートを東大学長であった上田万年に見せたところ、「アイヌの古老ひとりがこれだけの内容を暗唱していることが生きた証拠だ」と言って、「古事記虚構説」を否定しています。確かに文字のない時代の人々の記憶力が現代の我々の想像も及ばないレベルにあったことは、カラオケ登場後に歌詞を覚えられなくなった私にはよく分かります。

 

金田一に逢った翌年に女学校を卒業すると、幸恵のもとに金田一から厚い大学ノートが送られて来ます。金田一の勧めで、彼女はカムイユカラのアルファベット筆録と日本語訳をそのノートに細かい字でびっしり書き込んでは東京に返送し始めます。ノートは1年間で3冊に及び、書かれたユカラは膨大な量で、後に出版された13篇の神謡はこのノートに書かれたもののほんの一部に過ぎません。このノートを見た柳田国男、渋沢敬三、岡村千秋、上田万年らは内容の素晴らしさに驚嘆し、利益度外視で出版しようという話がまとまります。

 

1922年の5月に金田一の招きで上京した知里幸恵は金田一邸に寄寓し、他のアイヌの歌うユーカラの筆録など手伝いながら、出版のための清書と校正に没頭します。ところが段々に東京の暑さがこたえ始めたことと実父からの遺伝もあるのか、8月に幸恵は重い心臓病を発病します。それでも手を緩めず働きづめに働き続け、918日、全ての校正を終えてペンを置くと、心臓麻痺でこの世を去ったのでした。満19歳と3か月の短い生涯でした。

 

ところで幸恵は膨大な量の手紙や日記も残しており、発病の頃には、実の両親あての手紙の一節に次のような言葉があります。

 

・・・もう暫く留まって、一年か二年何か習得して帰りたいことは山程で、今頃病気だなどとおめおめ帰るのは、涙するほど悲しうございます。しかしご両親様、神様は私に何を為させやうとしてこの病を与え給ふたのでせう。私はつくづく思ひます。私の罪深さ故の全ての哀楽喜怒愛欲を超脱しうる死!それさえ思はれるのですが、神様はこの罪の痛手深い病弱の私にも、何事か為させやうとして居給うのであらうと思へば、感謝して日を送れます。・・・

 

 

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薄幸の天才少女と神々のユーカラ ニュース記事に関連したブログ

2011/11/02 23:08

 

 

文字を持たないアイヌは、太古の昔から神々や英雄の物語を、親から子、子から孫へと口伝えに、節をつけた歌の形で伝えてきました。これをユカラまたはユーカラと呼びますが、ユカラは神々を主人公にした「カムイユカラ」と民族の英雄を主人公にした叙事詩である「ユカラ」に分かれます。人間のユカラは非常に長く、中にはその歌が数時間にも及ぶものもありますが、カムイユカラはそれよりは短くて数分から数十分のものが殆どです。

 

カムイユカラの主人公は大抵、動植物や自然現象に化身した神々です。次に紹介するのはアイヌの天才少女・知里幸恵さんが日本語に訳した多くのカムイユカラの一つで、「フクロー神が所作しながら歌った神謡」という題が付いています。因みにフクローは村を守る神として、古代から尊ばれており、フクロー祭(昔はクマ祭り同様に重要な祭りだった)もあります。元来この歌は、フクロー祭で巫女が神憑りし舞いながら歌った歌です。

 

知里幸恵さんのことは後で説明しますが、北海道で金田一京助に見出され、上京して寄寓した金田一家で19歳の短い生涯を終えた天才詩人です。知床で私を案内してくれた早坂さんの「知里幸恵さんがもう少し長生きしてくれたら、アイヌ学はもっと違ったものになっていたでしょうに」というつぶやきが今でも耳の奥に残っています。彼女は清らかな心の持ち主で、アイヌ語、日本語ともに達人でした。

 

「銀のしずく降れ降れまわりに、金のしずく降れ降れまわりに」

という歌を、私は歌いながら川の流れに沿うて下り、

人間の村の上空を通りながら、自分の下の方を眺めると、

昔の貧乏人が今は長者になり、昔の長者が今は貧乏人になっている様子です。

海辺で人間の子供たちが、おもちゃの小弓と、おもちゃの小矢を、

持って遊んでいます。

「銀のしずく降れ降れまわりに、金のしずく降れ降れまわりに」

という歌を、私は歌いながら、子供らの上を通りますと、

彼らは私の下を走りながら、口々にこう言いました。

「美しい小鳥!神様の小鳥!さあさあ早く、あの小鳥、神様の小鳥を、

射当てた者、先に取った者は、ほんとの勇者、まことの首領なんだぞ!」

そう言いながら、昔の貧乏人、今は長者になっている者の子供らは、

金の小弓に、金の小矢をつがえて、私を射ましたが、金の小矢を、

私は自分の下を通らせ、自分の上を通らせました。ところで、子供らの中に、

一人の男の子が、ただの小弓に、ただの小矢を持って、仲間に入っています。

見ると、貧乏人の子であるらしく、着物からでもそれが分かります。

けれども、その目つきをよく見ると、えらい人の子孫であるらしく、

種類のちがった鳥のようにまじっています。彼もまた、ただの小弓に、

ただの小矢をつがえて、私をねらいますと、

昔の貧乏人で、今は長者となっている者の子供らは、

「やれおかしや、貧乏人の子、

あの小鳥、神様の小鳥は、俺たちの金の矢でさえ取らないのに、

お前みたいな貧乏人の子の、ただの矢、くされ木の矢を、あの小鳥、

神様の小鳥が、さぞさぞお取りあそばすだろうか!」

そう言って、貧乏人の子を、よってたかって蹴ったり打ったりしました。

けれども、貧乏人の子は、ちっともかまわず私をねらっています。

そのさまを見ると、わたしはふびんになりました。

「銀のしずく降れ降れまわりに、金のしずく降れ降れまわりに」

という歌を、歌いながら、ゆらゆらと大空に、私は輪をえがいていました。

貧乏人の子は、片足を遠く立て、片足は近く立てて、下の唇を、

ぐっと呑みこみながら、ねらいをつけていましたが、やがて、ひょおと、

射放しました。その小さい矢の飛んでくる姿が、きらきらと光ります。

それを見ると、私は手をさしのべて、その小さな矢をつかみ取り、

くるくると廻りながら舞い下りると、私の耳もとで、風がひょおひょおと、

鳴りつづけます。すると、かの子供らはいっせいに走りだし、

はげしい砂ふぶきを立てながら、私をめがけて競走しました。

土の上に私が落ちると同時に、まっ先に貧乏人の子がかけつけて、

私を取りました。すると、昔の貧乏人、今は長者になっている者の子供らが、

後から走ってきて、二十の悪口、三十の悪口をついて、

貧乏人の子を、皆で押したりたたいたりして、

「にくい子、貧乏人の子、先に俺たちがやろうとしたことを、

先がけしやがって!」そう言いますと、貧乏人の子は、

私の上にかぶさり、かぶさり、私を自分の腹でしっかりと押さえ、

ひと昔というほど永い間かかかって、人々の間からやっと飛び出すと、

それから駆け出す音、たったったっとひびきます。

昔貧乏人で、今は長者になっている者の子供らは、

石や木片を投げつけましたけれども、貧乏人の子は、ちっともかまわず、

激しい砂ふぶきを立てながら駆けてきて、一軒の小さな家の表へ着きました。

子供は、上座の窓から私を入れ、それに言葉を添えて、

こうこういう次第だと物語りました。家の中から老夫婦が、

小手をかざしかざし出て来ましたので、見ると、ひどい貧乏人では、

あるけれども、長者らしい風貌、長者の夫人らしい風貌をそなえています。

私を見ると、腰のまん中をぎくっと折ってびっくりしました。

老人はきちんと帯をしめて、私を拝し、

「フクローの神様、重い神様、私ども貧乏しておりますのに、

私どものそまつな家へ、おいで下さいまして、ありがとうございます。

昔は長者の中に自分を数えいれた者でございましたけれども、今では、

かようにつまらぬ貧乏人になっておりますので、村を守る神様、重い神様を、

お泊め申すも畏れ多いことながら、今日はもう日も暮れましたので、

今夜は重い神様を、お泊め申して、明日はせめて木幣でだけでも、

重い神様をお送り申し上げましょう」ということを言いながら、

二十ぺんも、三十ぺんも礼拝を重ねました。

 

ずいぶん長いので、中間を略します。この後、一家が寝入っている間に、フクローの神は家の中を「銀のしずく降れ降れ・・・・」と歌いながら飛び回り、粗末だった家を金銀の御殿にします。朝になると老夫婦は驚きかつ感謝し、フクロー神を丁重に祀り、酒を供します。フクロー神は神の世界の面白い話などをして共に楽しみます。次に老夫婦が、昔貧乏で今は長者の方々を家に招くと、無礼だと怒りながらやって来た長者たちは腰を抜かします。老人はフクロー神のご加護を説いて以下のように語ります。

 

「私たちはもともと一族なのですから、今から後は、なかよくつきあって、

互いに往来するように、お歴々の方々に、せつにのぞむ次第であります」

ということを弁じたてますと、長者たちは、何度も何度も手をすり合わせて、

家の主人に罪を謝し、これからは、なかよくしようと話し合いました。

私も皆から拝まれました。それから、人々みんな、心がとけて、

盛んな酒宴を開きました。

 

(まだ続くのですが、このくらいで、)

 

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アイヌ民族の生活とその神々の世界 ニュース記事に関連したブログ

2011/10/24 00:25

 

 

北海道を旅行してきました。アイヌ民族の早坂さんに案内していただき、知床半島のウトロでアイヌの遺跡を見学してきました。大変興味深い話もたくさん伺うことができましたので、帰京してから調べたことと併せて、皆様に報告します。

 

早坂さんは優れた彫刻家であるとともにアイヌ文化の研究者でもあります。彼に、「アイヌの人は・・・」と私が言うと、それは可笑しいと笑われました。「アイヌ」とはアイヌ語で「人間」のことだから、「アイヌの人」と言うと、「人間の人」になって変だと言うのです。彼は「アイヌの方」「アイヌ民族」あるいは、いっそ「アイヌ」と呼び捨てにした方が良いと言います。

 

 

この写真で、彼が奏でているのは「トンコリ」という弦が5本ある開放弦の楽器(それ故5つの音階しか出ない)で、これはご自分で作った多くのトンコリの一つです。トンコリは松の木などをえぐって作られ、人間の形をしているのだそうで、頭、首、耳、胴、ヘソもあり、楽器の中には魂として木の丸い球も入っています。音色はとても優しく、独奏をすることもありますが、多くは他の楽器とともに歌や踊りの伴奏に使います。

 

 

この写真の高い丘は「チャシ」と呼ばれるアイヌの砦です。日本の奈良時代ごろから造られ始めたものですが、昔は周囲に堀をめぐらせ柵で囲うという構造でした。チャシが造られた頃のアイヌは竪穴住居10戸ほどの集落を平地に作って住んでいましたが、敵の襲撃などの非常時には皆がチャシに登って戦ったそうです。早坂さんは私を案内してチャシへ入る前に、瞑目して土俵入りのように両手を広げ、次に手を合わせて指を組み、入念にチャシのカムイ(神)に「オンカミ」(日本語のオガミ)という祈祷をささげるのでした。チャシは極めて神聖な領域だからです。

 

アイヌ古来の信仰の原点は、この世のすべてが神であり、天上のカムイモシリ(神の国)から神が姿かたちを変えて、アイヌモシリ(人間世界)に天下ったものだということにあります。動物や植物はもちろん、海山川、太陽や月、火や風、家や道具ばかりでなく、地震や雷などの天災や自然現象も含め、ありとあらゆるものが神なのです。それらのものは人間世界で何らかの役割を果たすために神の国から派遣された神なのです。

 

例えば熊は人間に毛皮や肉を与えるという役割を担って遣わされて来ますが、人間世界での役割を終えると神に戻り神の国に帰って行きます。熊ばかりでなく動物を神の国に、感謝をこめて送る祭りをイオマンテと呼びます。神の国に帰った神は、人間と同じ姿かたちをしていて、妻も子も友人もあり、食事、飲酒、喫煙を楽しんでいます。神には良い神と悪い神がありますが、良い神でも時には悪事を働き、悪い神でも気が向けば良いことをするというのですから、とても人間的ですね。

 

アイヌは、神と人間が同等だと考えています。ですから、長老が神に祈願(アイヌ語でノミ=日本語のタノミ)をする時には、イナウという柳のカンナ屑で作った幣(ぬさ)やサケ(酒)や食べ物を捧げて、謝礼の約束をしたり、おだてたりして祈ります。現代の日本でも「儲けさせてください。儲かったら鳥居を寄進します」なんて口から出まかせの約束を神様にする人がいますから、神を友達のように心得る感覚がそっくりだと思いませんか。そっくりと言えば、アイヌと原日本人の言葉や骨格がかなり似ていると推定する人がいて、「アイヌは縄文人の子孫だ」という学説が有力となりつつあります。

 

神が願いを叶えてくれた場合には感謝の祈りを捧げますが、ちょっと面白いのは、叶えてくれなかった時にアイヌの長老のとる行動です。「先祖伝来の正しい方法で祈ったのに、あなたは願いを叶えてくれず神の品位を汚したではないか。あなたは神々から仲間はずれにされ暗黒の世界に突き落とされるだろう」と厳しく糾弾するのだそうです。これでは、神も人間を恐れないわけにいきませんね。

 

 

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ケンペルの日本礼賛と犬公方の笑話 ニュース記事に関連したブログ

2011/08/01 00:06

 

 

志筑忠雄がケンペルの著作を翻訳した『鎖国論』で、初めて「鎖国」という言葉が使われます。この単語は志筑が発明したもので、それ以前にはありませんでした。『鎖国論』には、キリスト教に関する偏見に満ちた意訳や誤訳も多いのですが、「鎖国肯定」に関する原著の論旨は概ね忠実に翻訳されていました。

 

18世紀末から19世紀初めの、ロシアの千島列島南下、イギリス軍艦フェートン号の長崎侵入などによって異国への敵愾心が高まる中で、この本は攘夷論者を増やして行きました。そしてとうとう、国学者・黒沢翁満は志筑の『鎖国論』を『異人恐怖伝』と改題し、解説を付けて大量出版します(1850年)。

 

解説の中で黒沢は「(外国の脅威がある今日では)もし日本が弱いとしても強いと言うべきである。まして、日本は強いのだから強いと言う情報を流すべきだ」と書いています。そして、日本が強いという根拠を、ケンペルが指摘している大和魂から来る「勇敢さ」に求め、蘭学者たちが異国に恐れを抱き、大和魂を損なっていると批判しています。ケンペルの著作は国学者を中心に、そのような読まれ方をしていたのです。

 

確かにケンペルは日本人を以下のように褒めています1973年今井正訳)。

 

われわれは道中いろいろな人に出会ったが、下は賤しい百姓から、上は高貴な方々に至るまで、その挙措は慇懃丁重であり、この国全体を高等行儀作法学校と呼びたいほどで、行儀の良い点でその右に出る国民は、世界中のどこを探してもいないだろう。日本人は、思慮深くかつ好奇心の強い人々で、外国の物といえば何でも尊重し、手中の珠の如くに慈しむ。(中略)日本人は大胆で、勇敢で、胆の坐っている点で欠ける所がない。敵に対しては、身を鴻毛のように軽く見なし、冷静な勇気を失わず、自らの命を自ら絶つことも敢えて辞さない。

 

着ている物はこざっぱりし、身体は清潔を保ち、習慣はすっきりしており、住居の掃除は行き届き、風雅である。(中略)手先が器用で頭の働きが良い点で、日本人は他の諸国民よりも優れている。(中略)日本人は無宗教の国民ではない。この国には自国固有の宗教もあり、また、各人が思いのままに信仰する神を崇める自由が国民に与えられている。道義の実践、敬神の務め、心の修養、罪業の懺悔(ざんげ)、永遠の幸福祈願などにおいて、日本人はキリスト教徒以上に熱心である

 

このように褒められた場合に、日本人には、今日でも2種類の反応があります。エズラ・ボーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という書物で、日本経済を絶賛した時、「やはり日本は優れている」と自信過剰になった日本人も多くいます。その一方で、ボーゲルの指摘自体を「幻想にすぎない」と否定し、「本当は弱体な日本経済を建て直すべきだ」と逆に警鐘を鳴らした一群の人々もおりました。幕末にも、ケンペルの賞賛を笑い飛ばした危機感の強い藩主や志士たちが多く存在し、彼らが結局、日本を明治維新に導いたのです。

 

幕末における欧米の恫喝的な開国要求を国家存亡の危機と捉えた人々が、「日本は強い」などと呑気に構えているはずもありません。かの横井小楠は、『鎖国論』をさらに深く読んで、「ケンペルの時代とは状況が変わった」と言います。「蒸気船の発明によって日本はケンペルの言う絶海の孤島ではなくなった。もはや鎖国は、国防上も何ら意味も持たない」と明言したのです。横井のこの主張が、徐々に広まって大勢を占め、「開国論」が当時の「攘夷論」を凌駕して行きました。

 

ペリーやハリスもケンペルの“The history of Japan”の愛読者でした。そのため、開国交渉においては、日米双方の代表が共通の「教材」を基に話し合うことができ、スムーズな開国への移行が可能になったのです。同時代の中国や朝鮮ではこのような「共通教材」もなく、中華思想(清)、小中華思想(朝鮮)という自惚れが邪魔して、開国への道のりはひどくギクシャクとしたものになります。

 

ここで余談ですが、ケンペルの“The history of Japan”から、「江戸城にて将軍綱吉に謁見した時の思い出」をご紹介しましょう。

 

(将軍から命じられるままに)われわれは、あるいは立ち上がって、あちらへこちらへと歩いて見せたり、あるいは互いに挨拶を交わしたり、踊ったり跳ねたり、酔っ払いの真似をしたり、片言の日本語を喋ったり、絵を描いて見せたり、オランダ語とドイツ語で朗読したり歌ったり、マントを着たり脱いだりした。私はドイツの恋歌1曲、私なりに歌った。(中略)このようにして2時間も体のいい見世物となった。

 

なお、翌年にもケンペルは江戸参府し、将軍の前で3時間半にわたって「体のいい見世物」とならざるを得ませんでした。

 

さらにわれわれは、夫が妻にどのように応対するか演ずるように言われ、接吻をして見せたところ、婦人たちはどっと笑った。(中略)歌を聞きたいと言うので、私が2曲歌ったところ、望外の大喝采を博した。

 

綱吉というと、生類憐みの令を発した「犬公方」としても有名ですね。ケンペルは日本人から聞いた笑い話も紹介しています。

 

飼い犬が死に、法令通り埋葬するため山の墓場まで犬の死骸を担いで登った男が、「犬の年に生まれた将軍のお蔭で俺はこんな苦労をする」と愚痴をこぼした。これを聞いた人が彼をたしなめた。「罰あたりなことを言うでない。もし将軍が馬の年に生まれたら、お前はもっと苦労したのだ」。

 

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欧州で流行った日本の鎖国是か非か論議 ニュース記事に関連したブログ

2011/07/18 23:38

 

 

18世紀初めにドイツ人博物学者・ケンペルが著した『日本誌』には、日本の鎖国を擁護する主張がなされています。ケンペルは、1690年(元禄3年)にオランダ船の船医として来日し、オランダ商館付きの医師として2年間長崎に滞在しましたが、その間2度に亘って江戸までの旅行を経験しています。

 

オランダ商館長に従って、九州から畿内を経て東海道を通り、江戸に参府した折に見聞した庶民の生活から政治・経済と技術、文化までを、精密に観察し、描写しました。この著作は、彼の死の翌年1727年に英訳されて、“The history of Japan”(日本誌)として出版されるや、高い評価を得て忽ちベストセラーとなります。次いでフランス語、オランダ語にも訳され、さらに版を重ねてヨーロッパの知識階級の人々に広く読まれました。

 

ケンペルは日本の鎖国について、この著作の中で興味深い考察を行なっています。彼は、キリスト教的な人類同胞観に立って貿易は自由に行われるべきだとしながらも、「しかし日本は特殊であり、その鎖国は肯定すべきである」と述べています。

 

どこが「特殊」なのかについては、1に、日本が隔絶した島国で外からの接近が困難な国であり、それ故、外国貿易が難しいと述べています。2に、日本は農業、漁業、工業が発達して物産が豊富で自給自足しており、独自の学問や文化も栄えているので、ヨーロッパとの交流から得るものが無いと分析しています。3に、国内統一期にカトリック国が布教の名目で日本を侵略する恐れがあって、日本政府が禁教と鎖国を選択した経緯は理解できると評価しています。4に、日本の「和を重視する民族性」「キリスト教以外では異宗教が共生している寛容さ」を指摘し、魔女狩りに狂う西洋より先進的で西洋から学ぶことは少ないと断言しています。

 

ケンペルのこの著作は18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの日本観を規定する役割を果たし、日本に関する多くの論争を生みました。この時代に、カント、ボルテール、モンテスキューらの啓蒙思想家はこぞってケンペルの見解を引用し、日本のキリスト教弾圧と鎖国の是非を論じ、「日本論」が一種の流行となります。

 

カントは、西洋諸国のアフリカなどに対する「非友好的な訪問と搾取」を批判した後に、不道徳な西洋人に対して日本が国を鎖したことは、極めて賢明な措置であったと鎖国を擁護しています。ボルテールは、「寛容だが決断力のある日本人は侮辱されたと知って西洋人と断絶した」と理解を示しながらも「しかし、鎖国が長引けば日本人は貧しくなり、無知・野蛮となるであろう」と警鐘を鳴らしました。モンテスキューは「日本政府はオランダと中国に貿易を限定し、しかも国民から貿易権を奪って独占し、生活の安定を与える見返りに国民の繁栄を犠牲にした」と「日本専制政府の愚行」を批判しています。

 

このような議論を踏まえて、18世紀末に編集された最初のドイツ語版『大百科事典』は、一定の結論じみた表現を行っています。すなわち、「日本は技術先進国であったが、全ての分野において今やヨーロッパに追い越されてしまった」と断言したのです。『大百科事典』は、日本が追い越された理由として「国を鎖したことによって、日本は、ヨーロッパの啓蒙思想の精神を取り入れることができなくなったからである」と表現しています。

 

ケンペルがポジティブに評価した鎖国政策も、わずか80年の後には、ネガティブな評価としてヨーロッパに定着したのでした。これは、啓蒙思想の合理的精神に裏打ちされた科学の発展と産業革命を経たヨーロッパ人の、自信の表れと見ることもできましょう。

 

「今やヨーロッパが日本を追い越した」と表明された直後の1801年になって、ケンペルの『日本誌』は、蘭学者・志筑忠雄が部分訳し『鎖国論』の書名が付けられます。この書物は、他の者による翻訳書と併せて、幕末までの日本国内で幅広い読者を獲得し、幕府官僚や雄藩の藩主や志士たちにとって必読の書となりました。

 

 

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江戸時代の驚くべき学問の発展と鎖国 ニュース記事に関連したブログ

2011/07/11 23:38

 

 

信長も秀吉も家康も鎖国志向ではなく、むしろ西洋との通商によって西洋文明を受け入れ、富国強兵に結び付けたいという意識が強かったように見受けられます。信長の言動には西洋文明への好奇心が明確に表れており、秀吉と家康も西洋文明を何とか利用できないかと模索しています。確かにその一方で、秀吉と家康は、かつての一向宗徒のようにキリシタンが反乱を起こすかも知れないという警戒心を同時に抱えていました。

 

しかし、その当時のヨーロッパにおいて多くの科学者の意識は「神の創造した世界の摂理を明らかにしたい」という宗教的な動機に裏打ちされていました。ヨーロッパでさえそうでしたから、日本人が西洋文明からキリスト教だけを取り除いて受け容れるということは、フグから毒だけを取り除くことよりはるかに困難なことでした。

 

そのことがしみじみと解りだした秀忠以降は、西洋諸国との幅広い交易を断念し、キリスト教を禁じ、西洋文明の摂取も諦めてしまいます。そして、列島に引き籠り、「いにしえから伝わる」神儒仏のみを祀るという復古路線を採用しました。フグの毒にあたらないように、フグ料理自体を諦めたわけです。

 

信長は、対外貿易を重視し西洋文明に強い興味を持っていました。キリスト教を導入することによる国内の混乱についても、信長は解決できると自信を持っていました。彼がそのように信じたのは、「キリスト教を保護した余にキリスト教徒が反抗する道理がない」という考えがあったからであり、フロイスにもそう語っています。西欧諸国が、仮に信長の恩を忘れて軍を送って来たとしても、「世界一の日本の銃の性能と数が彼らを圧倒するに違いない」という自信が彼にはあったことでしょう。

 

秀吉には国際社会への広い視野も定見もなく、キリスト教・国際貿易を自らの支配権確立と海外侵略のために利用しようしか考えない程度の人間でした。明国征服を企図し、フィリピンに朝貢を要求してスペインを怒らせるほどに武力を過信していたのに、一転してスペインの侵略を恐れるというチグハグな思考の持ち主でもありました。

 

家康は、ウイリアムアダムス(三浦按針)やヤンヨーステンを重用して、彼自身が西洋知識の摂取に努めました。しかしその一方で、キリスト教が広まることによる国内紛争の増加とカトリック教国の侵略可能性を心配して、寺請け制度を導入し、儒教思想による治国策を採用したのです。国内秩序を確立し泰平の世を築く上では最も賢明な選択でしたが、それが日本人の精神の発展性を封じ込めてしまったとすれば、かなり不幸な選択であったと言えるのではないでしょうか。

 

秀忠や家光には、家康ほどの視野の広さや思慮深さもなかったように思われます。幕府の権力基盤が揺るがないように、家康の方針を継ぐという名目を唱えつつ、ヒステリックなキリシタン弾圧を続け、全面的鎖国に踏み切ったのです。

 

江戸幕府は林羅山以降、林家の朱子学を基本的に幕府の学問としましたが、国教化したわけではありません。そのため、儒教の分野でも(朝鮮と違って)自由な学問が行われ、2000年も前の孔子の説を後生大事に何の疑いもなく信奉することから脱却することができました。

 

中江藤樹らの陽明学、伊藤仁斎らの古義学、荻生徂徠の古文辞学、石田梅岩らの心学などがそれで、日本の現実にあった儒学を発展させて行きます。またこの時代には、賀茂真淵や本居宣長の国学(実証的、文献学的手法による儒教・仏教渡来以前の日本の古代思想や神道に対する研究)が確立されています。

 

さらに将軍吉宗が蘭書輸入の禁を解き、蘭学奨励に踏み切ったことにより、医学、天文学、農学、物理学、数学など実学の飛躍的発展を招くようになりました。この影響の一環として、例えば大坂の懐徳堂からは、富永仲基の科学的宗教学山片蟠桃の宇宙論・唯物論など驚愕すべき学説も生まれて参りました。

 

このような、独創性に富んだ日本人の知的活力が、西洋で発展した科学や哲学と(長崎での蘭学程度でなく)もっと幅広く交流したならば、日本人は格段に優れた文明と文化の果実を手に入れることができたのではないでしょうか。

 

 

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禁教と鎖国は正しい選択だったのでしょうか

2011/05/15 00:02

 

 

フランシスコ・ザビエルらの来日に始まる16世紀の日欧遭遇と、ペリーらの来日に伴う19世紀欧米との遭遇を比べると、そこには共通点と相違点があります。両者とも西洋の側からある日突然にやってきて、我が国に少なからぬ衝撃をもたらしたという点ではよく似ています。しかし、16世紀における文明や国力の東西格差が極めて少なかったために、来日した宣教師たちは日本の文化と国民の優秀性や経済力にまで驚きの目を見張らずにはおれませんでした。しかし、19世紀に来日した欧米人は日本人の礼儀正しさや浮世絵などを讃えつつも、文明、経済、軍事などにおいて日本が極東の後進国であることを、やはりそうであったかと納得しています。

 

この二つの東西遭遇の間には、200年以上に亘る日本の鎖国時代が横たわっています。日本が国を鎖している間に、西洋では自然科学の分野で数限りない偉大な発見と発明が相次ぎ、社会科学や哲学の進歩も日本とは段違いでした。世界を怖がって日本が引き籠りを続けている間に、西洋の諸国家は活発に働き、勉強して産業革命を起こし、憲法を制定し議会も開設していたのです。

 

幕末・維新を迎えた頃の日本には、遠い過去の16世紀に九州の諸大名や信長がヨーロッパ人を引見した時の記憶が消え失せていました。そして、多くの武士たちは、信長の頃とは様変わりに外国人を忌避し神国の土を踏ませまいといきり立っていました。しかし開明的な武士たちは西洋文明の先進性を素直に尊重し、明治以降は国を挙げて西洋文明の吸収に努めたことは皆さんご存知の通りです。その後も、努力を尽くしてかなり追い付いたわけですが、政治家の国際感覚や見識、また国民の政治意識などに見る通り、未だ欧米と肩を並べたとは言い切れぬ部分も残っているように思えます。

 

「そもそもキリスト教の禁止やそのための鎖国が必要だったのか」と考えることがあります。

 

16世紀にキリスト教や西洋文明に接した頃の日本人が、かなり積極的・開放的であったことは多くの文献から知られます。台湾・ルソン・マカオ・シャム・バタビア・カンボジアとの間に日本商人や多くの武士たちが頻繁に往来し貿易を行っていたのです。そのような状態は、ザビエルらが来日した前後の室町末から鎖国までの約80年間に亘って続きました

 

資料の残っている範囲で見ると、1604年から家康の没した1616年までの海外渡航許可証は、13年間に179通発行されています。その後、最終的な鎖国(1636年)までの20年間に海外渡航した船は148隻以上ありました。一隻の船には200300人以上が乗り込んでいましたから、1604年から1636年までに、延べ約8万人以上が海外渡航したことになります。

 

1636年に海外居住の日本人の帰朝が全面禁止された折には、シャム・カンボジアベトナム・マニラ・マカオ・マラッカ・ジャワ・南洋諸島・インドに計数千人の日本人が置き去りになりました。来日外国人との結婚も盛んで、混血児全員を国外追放した折には、一隻のポルがル船だけで287人を乗せていたことが記録に残っています。

 

当時の日本人は島国根性が強くて、国際性が乏しかったということはなく、為政者が鎖国政策によって、日本人の進取の気性を押し殺してしまったという方が適切ではないでしょうか。

 

「鎖国しなかったら日本は征服されたのか」ということも考えてみました。

 

当時の日本人がどれほどキリスト教徒になっても、メキシコペルーフィリピンのように、外国に征服されることはなかったのではないかと、私は考えます。確かに、日本のキリスト教化が進めば、秀吉や家康のような手法(刀狩りや寺請制度)で治安を保つことは難しかったかも知れません。しかし、もしもキリシタン大名の誰かが国内統一に成功したとしても、彼がスペイン国王に服属するようなことにはならなかったと考えます。

 

当時、日本国民としての民族意識はそれほど弱くなかったように想像します。何しろ、聖徳太子や天武天皇の時代から、中国に対抗しての日本人意識は旺盛でした。また、民族意識を担保する国防力を考えても、徳川時代に入った当時の日本の武力は西洋に劣るものではありませんでした。しかも、国を開いておればその後も継続的な軍事技術を海外から導入することが出来たでしょうし、また自国で開発する力もあったはずです。

 

日本を巡る新教国と旧教国の対立、旧教国間の抗争、新教国間の抗争は当時から陰に陽に激烈なものでした。キリスト教を摂取しても、一つの国に内応する勢力のみが日本を牛耳ることはあり得なかったでしょう。むしろ、国際関係に苦心しながらも、日本人の国際感覚が育って行った可能性の方が高いと言えるのではないでしょうか。

 

 

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キリシタン大弾圧と鎖国(秀忠・家光)

2011/05/08 23:42

 

 

大坂夏の陣の翌年(1616年)、大御所家康がこの世を去ると、秀忠は直ちに「伴天連宗門御制禁奉書」を発布しました。この「奉書」は、これまでの禁教令と異なり、武士のみならず百姓、町人に至るまでのキリスト教信仰を禁止したことに特徴があります。併せて、「きりしたん国」の船の入港を長崎と平戸に限定することも明記されました。これによって、宣教師の日本入国をチェックするとともに、諸大名の外国貿易を幕府が統制しようと意図したのです。

 

その翌年の1617年に秀忠は、長崎住民が宣教師を宿泊させることも厳禁すると発令しました。さらに、長崎に潜伏していた宣教師4人を捕縛すると直ちに処刑し、匿っていた農民も多数処刑しました。その一方で、宣教師の所在を密告した者には銀30枚を与え、この褒賞銀制度を全国展開しています。さらにその翌年、秀忠は上洛して自ら采配を振るい、京都七条河原で一般キリシタン信者52名を火刑に処しています。

 

1620年には、朱印船(貿易船)の船長であった平山常陳というキリシタンが、スペイン人宣教師をマニラから九州まで護送するという事件が起こります。しかし、途中の海上でオランダ船がこの船を拿捕し、宣教師2人と常陳を日本側に引き渡してしまいました。秀忠は、宣教師や常陳を始めとするキリシタン55名を逮捕し、間髪を入れず22名を火刑に処し、33名を斬首に処しています(元和大殉教)

 

この時、常陳は猛火にたじろぐことなく、息絶えるまで大声でキリスト教の説法をしたと伝えられています。また、この処刑においては、十字架へ縛る縄目は緩く、竹矢来には隙間を作り、わざと逃げ易いようにしたそうです。恐怖に駆られて逃げる者が出た時は、役人たちが声を揃えて笑い、はずかしめようという仕掛けですが、全員が幸福な笑みを浮かべて処刑されたと記録されています。もっとも、その様を見た見物人たちは、却ってキリシタン信仰に不気味さを感じたというから、秀忠の目的は達せられたといっても良いでしょう。

 

1623年に将軍位を家光に譲った後も大御所秀忠は実権を握り続け、それまでキリシタンを黙認してきた江戸市中でも処刑を行います。スペイン、ポルトガルの宣教師と江戸市民50名と彼らの妻子26人が火刑に処せられ、日本全国に集団処刑が広がりました。

 

秀忠のキリシタン嫌いは徹底しており、全住民がキリシタンと言われた長崎で、棄教を迫る拷問として雲仙地獄における熱泉浸し、穴吊るしなどがこの頃行われています。秀忠が没して、家光親政となった1732年以降も、3年間に長崎在住宣教師36名が一般キリシタン38名と共に処刑されました。

 

島原の乱1737年に起こります。領主・松倉重政の重税に農民たちが堪らず決起したのが発端でした。しかし、キリスト教を紐帯として天草四郎と農民が結束し、原城に4カ月間立て籠もって3万人の籠城者全員が殺戮されました。この時、「オランダ人御忠節」と呼ばれる奇怪な事件が起こります。

 

オランダ船が海上から原城に向けて大砲による砲撃を加えたのです。ポルトガル勢力の日本からの締め出しをオランダが策したものと考えられ、このことが後にオランダを例外とする鎖国に結び付くのでした。「日本が鎖国を行ったのはオランダ陰謀」とする解釈は、主にこの事件から生まれます。幕府は島原の乱鎮圧直後に、この乱を農民一揆でなく「キリシタン一揆」と呼び、江戸期を通しての「邪宗観」を定着させるため最大限に利用しました。

 

鎖国に関しては、時代を追って、以下に記してみます。

 

1624年、秀忠、スペイン船の日本来航を禁止フィリピンと断交。ポルトガル人の宿泊先を非キリシタンの家屋に限定。

1633年、1次鎖国令(幕府から長崎奉行への「覚」の形式)。

奉書船(将軍下賜の朱印状に代わり老中発行の奉書を携行した船)以外の日本船の渡航禁止。日本人の海外渡航と帰国の禁止

長崎奉行の指定地以外でのキリシタンの居住禁止。伴天連の存在を密告した者への褒賞銀100枚。渡来船の船中改め規定。南蛮人の子孫(混血児)と養父母の海外追放、帰国禁止

諸国大名の貿易を規制(貿易枠を定めた)。

1636年、3次鎖国令一切の日本船の外国渡航禁止。混血児の海外追放実施と帰国・文通の禁止

1638年、ポルトガル船はマニラで島原の乱の報を聞き、幕府を刺激しないよう、それまでの半分の積荷で長崎に入港。それでも、金額は12,590貫。これに対してオランダ船の積荷は5,000貫弱と半分以下
そのため、家光はポルトガル貿易禁止に踏み切れなかったが、オランダ商館長がオランダの将来性が大であることを幕府に力説

1639年、5次鎖国令ポルトガル船の来航禁止令

1640年、対日貿易の依存度高いマカオ市の使節74名が、通商継続の嘆願書を携えて長崎に到着。幕府は彼らの内61名を斬首し、船を焼却。

1641年、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移転させ、鎖国完成

 

 

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